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田川簡易裁判所 昭和34年(ろ)76号 判決

被告人 松下道徳

大一一・一・三〇生 会社員

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実は、

被告人は昭和三四年二月八日午後三時五分頃小倉市鳥町四丁目附近道路において、福岡県公安委員会が道路標識によつて最高速度と定めた毎時二四キロメートルを、一二キロメートルこえた毎時三六キロメートルの速度で小型乗用車を運転して、無謀な操縦をしたものである。

と謂うのである。そして被告人の当公廷における供述、司法巡査森寛治、同松島徳雄の共同作成に係る現認報告書の記載、証人森寛治、同松島徳雄の各証言を綜合すると

1  前記被告人が通過した当時の前示道路については、福岡県公安委員会の告示により、自動車の速度を毎時二四キロメートルに制限していたこと、

2  その旨の道路標識が被告人の通過した道路の左側に設置してあつたこと、

3  被告人が前示道路を小型乗用車を運転して、毎時三六キロメートル位で走行したこと、

が認定できる。

被告人は前示道路標識について

被告人が小倉市大阪町から左折して平和通り(公訴事実には「鳥町」とあるも俗に「平和通り」と称し、この道路が前示県公安委員会により毎時二四キロメートルに速度制限となつているものであることは、前記証人等の証言により認められる)に入つたのは本件当日が始めてであり、その際被告人の進路前方である平和通りの横断歩道を通行する約一〇名の歩行者の動静を注視していたため、道路標識は全然気付かなかつた。

旨弁解するので考察するに、被告人の当公廷における供述並びに検証の結果によると

1  本件当時被告人は前示小型乗用車を運転して砂津方面から大阪町を西行し、同町と平和通りの交叉点に到着した時、その東西の通行は停止となつていた、そこで先行の停止車二輛のうしろに一旦停車して信号を待ち、進行信号となつて先行車が発車したのでこれに続いて発車したが、先行車は共に西方へ直行し、被告人の車は南方へ左折し、時速五キロメートル位で右交叉点を通過しようとしたところ、恰も平和通りの横断歩道を約一〇名位の歩行者が西に向つて進行を開始したので、これと接触又は衝突をしないようにその動静に注意しつつ進行し平和通りに入つた事実、

2  右の状況の下において前示道路標識を看取し得る距離は一二・三メートル時間にして約一〇秒であるが、被告人は歩行者との事故防止に専念したがために道路標識を見落したこと、即ち過失により右道路標識を認識しなかつた事実、

が認められる。

よつて先ず道路交通取締法(以下法という)第一〇条第二項により県公安委員会が告示及び道路標識によつて制限した速度をこえ自動車を運転したため、法第七条第一項、第二項第五号に違反し法第二八条第一号に該当する犯罪が過失犯をも含むものであるかについて考察する。

刑事法規は原則として故意犯を処罰の対象とし、過失犯を処罰するのは例外であることは刑法第三八条第一項により明らかである。従つて過失犯を処罰するには法令に特別の規定があるか、又は明文はなくとも該法令の趣旨から推して過失犯を処罰する法意が認められなければならない、そしてこれを認めるか否かについては罪刑法定主義の原則に従つて厳重に検討し、苟も行政取締の目的を徹底する必要があるというようなことに籍口し、法の真意を曲げて結論することは慎まなければならない。ところで前示法令違反の罰則は本来道路における危険防止及びその他の交通の安全を図ること、即ち発生することのあるべき交通事故を未然に防止するために、道路などの状況に応じて車馬の速度を制限することを目的としているものであつて、違反行為の取締ということに重点を置いていない。このように解すると過失犯をも処罰する法意であるとは認め難く、又特に過失犯をも処罰しなければならないような特別な理由も見あたらない。

なお近時交通事故が多発し、これを防止するためには取締の徹底のため過失犯をも処罰しなければならないとの考え方もあるが、過失による違反を防止するためには、関係者をして、どの地点又は道路において、どのような行為が禁止又は制限されているかを認識させ、その規律の遵守を徹底させるのが前提である。例えば相当距離の道路における速度を制限するにあたり、その両端に所定の道路標識を設置したのみであれば、該道路の中間にある横道からその道路に入つた運転者は道路標識を認めることができない。又本件の如く常に自動車の進路前方を横断する歩行者があることを予測し得る交叉点においては、運転者は歩行者の動静に注意力を集中する結果、応々道路標識を見落すこともある。このような場合に所定の道路標識を設置したのみで万事終れりとするが如きは、関係者に速度制限道路であることの認識を与える手段としては甚だ徹底を欠くものである。本件においても、現場に道路文字又は横断幕などにより速度制限の認識を与える方法が構じてあつたならば、被告人は違反していなかつたであろうと推察される。

従つて規律の周知徹底を放置し、処罰の徹底のみを期する考え方には賛同することができない。

以上の理由により、少くとも法第一〇条第二項により、県公安委員会が道路標識によつて公示した制限速度をこえて自動車を運転したため法第七条第一項、第二項第五号第二八条第一号に違反した罪についての処罰の対象は、刑事法規の原則である故意犯のみで、過失犯は含まれないものと解するを相当と考える。

つぎに被告人の前示道路標識の認識の欠如は、いわゆる法の不知として犯意を阻却しないかとの点について考察する。

本件道路標識は法第一〇条第二項の委任により、福岡県公安委員会が昭和三〇年二月一〇日告示第八号で公布し、道路交通取締法施行令第五条、第六条にもとづき設置したものである。そしてこのように定めた趣旨は、例えば告示における速度制限区間を「小倉市大阪町六丁目八七の二から、同市古船場町一五三まで」(本件道路はこの区間であるが、前記のとおり公訴事実では鳥町四丁目附近とあり又俗に平和通りといつている)というように表示してあること、右告示で速度制限をしている道路のみでも二七六箇所の多数であることなどから、たとえ如何に告示されても、その事項を現場において道路標識又は区画線などで明確に表示しないかぎり、関係者がこれを遵守することは不可能事であるからである、又実際上道路標識が誤つて設置されることもあり、あるいは不心得者によつてその場所が移動されることも予測されることなど考え合せると、本件道路標識は前示告示を現地において公示し、関係者に告示事項を周知し、その遵守を徹底するための一方法である。

そうすると道路標識そのものは法令の性質を有するものでなく、従つて本件にいわゆる法の不知とは前示県公安委員会の告示の不知をいうものであり、道路標識の不知をいうものではないと解する。

以上説示のとおり過失による道路標識の不認識の結果、速度制限に違反した所為は処罰の対象となし得ず、そして本件全証拠を検討するも被告人が前示道路標識を認識していたと認め得る証拠がないので、刑事訴訟法第三三六条に則り被告人に対し無罪の言渡をする。

(裁判官 吉松卯博)

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